『やる気はあるけど、先が見えなくて止まってしまったやつ』


――ピピッピピッピピッ

 まどろんだ意識の中、ゆっくりと腕を伸ばす。……む、目覚まし時計がない。いつもならば枕元に置いてあるはずなのだが、何故か今日に限って、無い。どうしたことだろう。
 なんとなく気になったのか、いつもよりも早く布団から出る。頭を振りつつベッドから降り、辺りを確認する。別段、変わった様子は無い。というか、全く変わってない。しかし時計が、いつも置いてある場所に無い。……むう、音はしている。音のほうを向くと、何故か机の上に置いてあった。あぁ、そうか、今日はいつもより早く起きようと思って、時間を弄ったんだっけ。……弄ったまんま、戻し忘れた、と。
 朝の些細な疑問が解決した途端、急に眠気に襲われる。この都合のいい頭よ。

「和真ーっ、起きたのーっ? 朝ご飯出来てるから、早く降りてらっしゃい!」
 もう一度布団にもぐろうとしたところで、母親のうるさい声が聞こえてしまった。長年この声に起こされた所為か、叫ばれると何の意味もなく頭にきてしまう。これは教育ミスだと自分を以って痛感した。……渋々、制服に着替えて一回に降りてゆく。
「っはよう……」
 俺は低血圧だ。普通に考えて、常人でも朝の5時半に起きる事は至難の業であろう。
「おはよう。ほら、テーブルに朝ご飯出てるから、さっさと顔洗って食べちゃって。片付かないからね」
 今日の朝ご飯は焼き魚…秋刀魚、味噌汁、白菜の漬物、白米と確認して洗面所に向かう。
 心地よい水の流れる音。さすがに大自然の小川とまではいかないが、これでも癒し効果はあったような気がする。……いつまでも流していると文句を言われそうなので、さっさと顔を洗う。そろそろ冬だからなのか、水が冷たい。言わずとも、いつもより目が冴える。
 ――む、美味い。今が旬の脂がのった秋刀魚、適度に出汁が効いている味噌汁。どちらとも白米に合う。そして、良く漬かり且つ冷えている漬物。今日も飯が美味い。
「美味しそうに食べてもらうのは嬉しいんだけど、さっさと食べ終わって頂戴ね」
 この至福の時が、無粋な声によって邪魔されてしまった。飯は、飯は一日を謳歌する為に必要不可欠な要素だというのに、それをこの親は、この親はっ! ……しかし、飯時に怒気を放つ方が無粋というもの。ここは抑えて、十分に吟味するとしよう。
「馳走になった。今日も美味い」
「はいはい、食器は台所に持っていっておいてね」
 毎日の食事を作ってもらっている身として、食後の片づけを手伝うのは常識……いや、それは至極当たり前のことだ。どのような形でも、恩を受ければ何らかの形で返すのが義と言うもの。俺は親に返しきれないほどの恩を受けて育ってきた。その少しでも返そうと思い、些細なことでも手伝うようにしている。……もちろん嫌々でやるのではなく、能動的にやっているつもりだ。
 食器を水に浸け、何気なく時間を確認する…6時30分。朝の時間の大半を食事に費やしている俺としては、今日くらいの時間に起きるのが一番丁度良いのかもしれない。……ちなみにいつもは、遅刻ぎりぎりの時間に家を出ている。それはつまり、いつも遅刻しているということ。しかしながら、遅刻をしてでも食事という行為は有り余る至福を俺に与えてくれる……と、詭弁か。
 ……結果的に、俺の遅刻数は目も当てられないほどになっている。というか、進級できなくなるまでの数は指で数えられるかもしれない。そう、さすがに進級と食事では、拮抗しているとはいえ進級の方が大事だ。その為に今日からいつもより一時間早く起きるよう、昨日決心したのだ。
 自分の部屋に戻り、教科書を昨日の物と入れ替える。今日は……なんだっただろうか。恥ずかしながら、つい先週まで母親に教科書を入れてもらってたりしていた俺、どうも一週間の時間割を覚えるには至っていなかったようだ。一番最初のHRでもらったようで違うような、一言で言うと何時もらったかさえ分からない時間割表を見る。……今日は数学、現国、体育か。教科数が少ない日でよかった。
 ――よし、準備完了。それと共に時間を確認、7時30分。な、なんてことだ……俺はこんなにも早い時間に準備を完了してしまってよいのだろうか。自分の事ながら、今日は雪でも降るのではないのか……いや、そろそろ降ってもおかしくない時期といえば時期なのだが。
 少し早いが、余裕を持っていたほうが良いだろう。いつもとは180度違う心境で、家の玄関を出る。
「行ってきます」




 うう……秋特有の、暖かくも無く寒すぎずといった風が通り抜ける。なんとも、雪が降ると制服だけではとてもじゃないが行動できない寒さになることを想うと、今からでも憂鬱になるというものだ。ゆっくり歩きながら、そんな事を思う。木に生える葉が全て落ちきるか落ちきらないか、冬への変わり目の時期。そういえば今日は体育があるのだった……なんてことだ、間違えて半袖を持ってきてしまった。俺は意地でも一年中半袖を着るような、子供な年頃ではないのだ。寒ければ長袖を着るのだ。
「……はぁ」
 溜め息を吐くと、息が白く視覚化される。もうそこまで寒くなったのか、と思わせる現象。いやはや、そろそろ餅が美味くなる季節だ……お汁粉もだな。いや、おせち料理もあるな。伊達巻は、伊達巻が抜けたおせち料理なんておせち料理ではないと豪語できるほど伊達巻は偉大な存在だと俺は認識している。あぁ、数の子も欠かせないな。黒豆は要らないな。……そう、クリスマスも楽しみだ。仏教の家が何故イエスキリストの誕生日を祝うのかと聞かれると答えに詰まるが、それでもご馳走が口に入れば何でも良い。毎年色々な豪華な料理が食卓に並ぶが、今年はどの様な物が並ぶのだろうか……あぁ、七面鳥はもうさすがに飽きたな。そろそろ別の主食を用意して欲しいものだ。俺としては豚の肩ブロックや牛を使ったらどうかと考えるのだが……そうか、今年もそんな季節なのか。
 そんな、食べ物尽くしの事を考えている内に、学校に着いてしまった。現在の時間は8時10分。……早い、時間とはこうも早く感じるものなんだな。
 学校……学校での楽しみを見出せない負け組とは、俺のことだ。勉強は詰まらなくはないものの、楽しいかと聞かれれば首を横に振らずにはいられない、そんな感じ。友達関係も、嫌に淡白でつまらない。親友がいない、と言うべきか。
 いつも通りの教室に軽く挨拶をし、鞄を置く。何故だろうか、学校に来ると思考が単調化している気がする。周りのざわめきが思考のノイズとなって頭を埋め尽くす。「昨日のドラマさぁ」、「あぁ、あれだろ?」、「それよりもさ」、「僕としてはあれが」、「俺も俺も」……情報価値の低い会話内容だが、それに価値を見出すのが青春≠ニいう概念なのだろうか。本当に何故だろうか、学校に来ると単調……と言うよりも、機械的な考えしか出来なくなってしまう。利害、価値、そんな事を優先第一位に措いて考えてしまう。今日も、俺は――
「おはよー」
 瞬間、思考がクリアになる。目線を向けるとそこには、彼女、緑嶋佐奈希(みどりしまさなき)が教室に入ってくる姿が目に入った。
「おはよう、佐奈希」
「お? 和真がこの時間に来てるなんて、珍しいじゃん。明日は雪でも降るかねぇ、にっひっひ」
 彼女特有の笑いが、何故かしら意識を現実に引き戻してくれている気がした。そんな感覚に戸惑っている俺を他所に、佐奈希は自然と俺の隣の席に座る。
「んー、でもほんと、この時間に居るってことは……もしかしなくても早起きしたわけ?」
「まぁな。正直、起きれるとは思わなかった」
 この馴れ馴れしい態度は、俺と佐奈希が幼馴染だというところから来ている。とは言ったものの、一緒に遊んでいたのは小学生まで。高校三年で初めて同じクラスになったので、あまり幼馴染だということは意識した事は無い。……最初はあること無いこと噂されたものだが。
「まぁさすがに遅刻数やばそうだもんねぇ〜。私、ほんと人事なのに毎日生きた心地がしなかったよう」
「自分のことじゃあらへんやん」
 なんとなくノリで突っ込む。
 佐奈希はと言うと、「にっひっひ」と笑いつつ教室に入ってきた担任を見て顔が固まっている。時間を見ると8時30分。なるほど、担任が来る頃だ。
「えー、突然だがー、うむ。凄く突然だが、季節外れの転校生が来ることになったー」
 このクラスの担任独特の語尾を伸ばす口調は、何度聞いてもむず痒いと言うか、気持ち悪いと言うか……何とも形容し難い気分に襲われる――と、今何かとても重大なことを言っていた気が。
 ……転校生。もうすぐ二学期の終わりだというのに、転校生。しかも、一応ここの高校はそれなりにレベルが高い。編入試験ともなれば、かなりの難度になるはずなのだが……いや、考えれば考えるほど突然な話に思える。
「せんせーい、転校生って男っすか? 女っすか?」
 名前は覚えていないが割と目立つようで空回りしている男子生徒Aがお決まりの質問を口にする。まぁ気にならないかと聞かれれば、なると答える。しかしながら、男だろうと女だろうと一癖も二癖もあるような気がしてならない。いやはやなんとも、転校生か。
「うむ、女だー。先生も惚れてしまうくらいの美人だぁー。あっはっはっはぁー」
「先生ッ! それは教諭として有るまじき発言だと思います!」
 名前は覚えていないが凄く目立つ生徒会長がズバリと発言。ズバリその通りでしょう。この担任、頭のネジが何本か抜けている気がする。いや、抜けている。
「いやっはっはぁー。まぁ、もう廊下に来ているから、今呼ぶぞー。おーい、宝前路ー」
『もう来てるのかよ!』
 クラスの半数が一斉につっこむ。もう廊下に居たというのにこの担任は惚れるだのなんだの言ったのか。駄目だ、いつかPTAに何かしら干渉されるぞこの男。
 
 ――ガラッ。
 
 その、転校生が入ってきた瞬間、教室の空気が変わった気がした。……なんて言うのか、纏っている空気が違う感じ。本当にこんな人間が存在したのか、そんな考えにも至らせるような確固とした存在感。……随分と説明的だが、そうとしか言えない。顔付きは日本人だが多分地毛だろう、腰にまで届くくらいの髪、目に痛いほどの金色。逆に整いすぎて、この世に在ってはいけないものを見ているような錯覚。
 その様に感じているのは俺だけではないらしく、他の男子だけでなく女子までもその存在≠ノ魅入っている。……そして、ゆっくりと口を開いた。
「宝前路遙(ほうぜんじはるか)です。時期外れの編入となりましたが、今後しばらくの間、よろしくおねがいします」
「だ、そうだー。宝前寺は親の都合で引っ越してきたらしくてなー、またすぐ引っ越すかもしれんということだー。っとまぁ、空いてる席に勝手に座ってくれー」
 そう担任に言われると、軽く解釈をして歩き始める。この間に口を開いた者は担任以外に居ない。それを考えると、大物なのか頭が足りていないのかわからなくなってくるから不思議である。
 ……む? おかしい。クラスの視線が俺に集まってきている。え、いや、さすがに視姦されてうれしいなんて性癖は持っていないつもりなので、ちょっとどころか物凄く気まずい……なんとなく、嫌な予感がしたので、少しだけ、横を向いた。
「――四条和真(しじょうかずま)、話がある。放課後、屋上に来て欲しい」
 
 ざわ……。

 クラスにどよめきが走る。なんか物凄い形相で睨みつけてくる奴も居る。おかしいな。何故この様な展開に陥っているのだろうか……転校生が来たまでは良しとしよう、日常生活内での許容範囲だ。しかしながら、見ず知らずの美人転校生に屋上へ呼び出された、しかも放課後。……当の本人でも怪訝な表情になるというものだ。
「いや、意図を計り兼ねる。第一に俺は君を知らない。初対面の人間に屋上へ呼び出される道理は俺に存在していない」
 少しキツイ物言いだったか。しかし、その通りなのだから仕方がない。俺は帰宅部だし、家に帰ったら怠けだらけたいし、一分一秒でも惜しい。本当のところ告白等も考えたのだが、それこそ有り得ないし、今は一人身のほうが楽しいのでどちらにしろこの考えは却下。
 なんて、考えている内になにやら転校生の様子がおかしい。表情が引き攣っている。
「案外頭が固いのね、貴方。……私、貴方の意見は聞いていないのよ。放課後、屋上に来なさい」
 なんということだ。こいつはとんでもないお嬢様キャラだ。名前からして気付くべきだった。……よりにもよって命令口調、それもお嬢様語尾。これは本当に困ったことになった。
 こっちは何かと陰鬱な気分なのに対して、先程よりもさらに視線が痛く感じる。誰でもいいから俺の意思を尊重してくれ。被害者だぞ。
 パッと見30ほどか。教室の全生徒といっても過言ではないほどの数が俺のほうを不気味なほどに凝視している。……そう、俺は今まで別段目立ってきたわけでもないし、実は学年でトップクラスの成績を隠し持っているとか、その様な類のことも持ち得ていない。ならば、自ずとこの反応もうなずけること。
 一度、肺に溜まりに溜まりきった溜め息を吐く。……そう、彼等は疑問しているのだ。予定調和を乱さない、数の埋めるだけの凡人が果たして何かしらの表舞台に立つことが出来るのか……否、それは愚問。配役に足り得ない人物はそれ故に問題になることもない。……然り、俺は極普通なのだ。彼らの疑問も頷ける。
 なんにせよ、起こってしまった事象は何者にも覆せやしない。いくら俺が反論しようと、事を無駄に荒げるだけだ。ここは、しばらくの間静観しているに――
「ちょっと、なに、あなた。和真のなんなわけ?」
 ……然り、この様に予想外の方向から第三者の介入があると、歪曲した方向に物事が運んでしまう傾向が多人数のコミュニケーションで多く見られる。そう、こんな感じで周りの目を全く気にしない愚者が現れた場合は、ただただ物事は谷を転げるように悪い方向へしか転がらない。
 しかし何故、佐奈希が席を立ってまで発言しているのだろうか。ただでさえ理解しがたい光景に追い討ちをかけるように、次々と罵声が上がってくる。
「貴様ぁ! さっきから黙ってみていれば、なんなんだ! お前みたいな名前も覚えられないほど空気が薄い奴が、何故! なにゆえこのような状況の中心人物になっているんだッ! 答えろこの間男!」
 先程担任に在り来たりな質問をした、名前は覚えていないが割りと目立っている男子生徒Aが、俺に人差し指を向けながら何かを喚き散らしている。……内容は至極簡単、自体の悪転加速させただけに過ぎず……。
「ず、ズバリッ! 私も彼に同意見です! 一介の一男性として、これは見逃せない事態でしょう!」
 ズバリ、もうわけが分かりませんでしょう。……気付くと教室はHR前の雑踏にも勝るざわめきに成っており、この状況を何とかしないのかと担任に目をくれれば、暢気にも窓から外を見ていた。……確かに、百歩譲って転校生の件は偶然で起こり得た事と言えよう。

 ――――しかしながら、その後の事象は偶然で計るには余りにも不愉快。そう、自制心も利かない哀れ愚者共は、下賎な話題を糧にこの不愉快極まるノイズを構成している。固体にして何も成すことが出来ず、群れにして不協和音を奏でるしか能のない存在。曰く愚者≠ニ、彼は言った――――。

 ……俺は、何を考えた。僅か刹那の出来事であろう瞬間を振り返る。何か、途轍もなく不吉な何か≠胸に残しているような、例に表す事の出来ない純然たる不快感。どうしたのだろうか、物事に思いを寄せ、それに没頭するのは幼い頃からの癖であったが、それ故に最中の記憶が飛ぶことなど初めてだ。不吉……とでも言うのか。何やらこの先の厭な展開を暗示しているようでならないこの不快感が解せぬまま、朝のショートホームルームは幕を閉じた。

 ――――いや、これは幕が上がったと言うべきか。彼曰く、これは不幸となる様だが、私にとっては幸運となりえるこの事態。この刹那の時に与えられる私の思考が確たる証拠。然り、極度の魔術要素が彼の付近に出現したことになる。それに呼応しての思考解除か、それとも単なる神の気紛れに過ぎぬ時間か……どちらにしろ、私にとっては不運に成り得る筈のない事態。あわよくば、この些細な偶然≠ェ運命の動力に成らんことを――――。


 りんどんりんどん鐘が鳴る。
 小さい自分。目の前の青年。後ろの女の子。頭上の孔。足元の水溜り。
 りんどんりんどん鐘が鳴る。
 倒れる自分。手を伸ばす青年。走り出す女の子。拡がる孔。拡がる水溜り。
 りんどんりんどん、鐘が止む。


 ――瞬間、覚醒する意識を確認する。
 現状を再確認、現国である5、6時間目を俺は睡眠により無駄にしてしまったらしい。見れば黒板はもう消され始め、ノートを見れば白紙のままだ。……また佐奈希にノートを借りなければいけないのかと、現状を確認し終わった時点で一番最初に思う。
 授業中に一、二時間ほど急に寝てしまうのは昔からあったことで、教諭が起こさなかったこともそれが原因だ。最初の頃は俺を起こそうと試みたようだが、文字通り殴っても蹴っても起きなかったらしい。……らしいというのは、他人に聞いた話だから。常識的に考えて、物理的外傷を受けているにも拘らず目覚めないというのは余りにも非論理的だ。しかしながら、それを体現する存在が居てしまったのだから仕方がない。
 数人、俺が起きた事に気付いたのか苦笑いをこちらに向けてくる。なるほど、今回も教諭が俺を起こそうと何かしら徒労を重ねたらしい。教諭といえば、まるで何もやっていないと言う顔で授業を終わらせようとしている。覚醒した時に気づいていたことだが、頭に大量の白い粉が付着している辺り、現国教諭の二つ名を轟かせる様な事をしたのだろう。……俗称、神速のスナイパー。彼にチョークを持たせれば、1つの街を壊滅させる力を与えることと同義……という、なんとも無茶苦茶極まる話だ。さすがに誇張表現が過ぎる部分もあるが、チョークで空き缶を打ち抜くことが出来る時点で相当の実力者だと分かる。
 ……と、俺は頭のチョークの粉から推測する。起きた後は状況から何が起こったかを判断するしかない、当たり前のことだがそれは意外と難しい。
 通常、人間はレム睡眠の状態で夢を見る。無意識下での記憶媒体を元に何らかの映像を作り出す、俺はその様に考えている。しかし俺の場合は少し違う気がすると思い始めたのは、はて、いつの頃からだろうか。どんなに形容しがたい映像であっても、それは記憶に有るからこそ成り立つ状態であり、記憶に無い限りは見るはずがないのだ。見たことはないと思っていても、何らかのパーツが使われている。……しかしながら、俺の夢は見れるはずのない映像なのだから、疑問なのだ。
 ――――記憶喪失。曰く、専門家は言う。PTSDによる弊害だというソレは、何故かは分からないが記憶障害を引き起こしてしまったらしい。……それ故に、幼少時の夢なんて見るはずがない。見たとしてもそれは偽り……悲しきかな俺の記憶は小学生高学年辺りから始まっている。特に不便ではないにしろ、突発的に寝てしまうだけでなく、特定された夢しか見れないというのは、少々頂けない。
 そして、詳しく思い出そうとすると、まるで霞がかかるように分からなくなるのだから、とうに思い出すことを諦めてしまったことは言わずとも。
 そんな些細な考え事をしている俺の耳は、どうやら外界の音を遮断していたようで、その声の主はどうやら実力行使に移ったらしい。
「ちょっと、ホントにおかしくなっちゃったわけ? 殴っても反応がないなんて、ちょっと心配しちゃうじゃないのよ」
「ごめん。少し考え事をしていた。痛みは確かに感じているので、次から暴力に訴えるのは止めて欲しい所存だ」
 2、3度叩かれた頭が痛い。佐奈希はと言うと、まるで反省した様子も無く腰に手を当てている。……腰に手を当てる女というのは、ヒステリックだとか何処かで聞いたことがある。なるほど、統計的に見てそれは正しいと思う。
「……今、不穏なこと考えたでしょ?」
 拳を震わせるのはどうかと思う。それは既に“ヒステリックのよう”ではなく、“ヒステリック”だ。
 ……ふと、思う。いつからだろうか、彼女がこんな風になったのは。一番古い記憶でも、佐奈希はこんな感じだった気がする。……記憶が途切れる以前の事までは分からないが。
 細かい違和感を振り去り、会話を再開する。
「そんなことよりも、だ。俺は野暮用がある。今日は遺憾ながら一人で帰って欲しい所存である」
「――なっ、なによそれぇー。社交性皆無、世間に興味なし、体裁なんて微塵ほどにも気にしない和真が、野暮用?」
「……」
 酷い言われようである。確かに、そのこと如くが的を射ていると言えるが、公の場で声を大きくして言う事であろうか。
「兎にも角にも、今日は少し遅れる。先に帰ってくれ。……待つのは構わないが、遅くなるかもしれないと先に言っておくぞ」
 野暮用。今朝、教室での出来事。興味が無いといったら嘘になる、それ。……おかしい話だが、このことに疑問を感じない“オレ”がいる。何にしても、今日は何かが……そう、言うなれば歯車が欠けているような、大事な物が足りていないような。その、大事な欠片が、気になるような。そんな感覚に襲われる。
 佐奈希は納得がいかないようで、俺が喋り終わっても唸り続けている。あぁ、最早ヒステリックの範疇に収まるものではない。これは獣だ。トラだ、お前はトラになるのだ……ッ!
「だっしゃー!」
「げふぉおぅっうお”」
 女として認めたくない掛け声を上げつつのリバー。それも良い角度で決まった。……やはり、前々から思っていたが、こいつ、只者ではない。
「さすがに今のはわかったわよ?」
「女性の第六感というやつだな。俺も聞いた事はあるが、中々に興味深い内容だったことを覚えている。効果は様々ながら、その効果は多方面に分岐し、中でも、動物の危険察知に近い感覚は類を見ない。今のもそれに近いものだと思うが、相手の考えていることを読み取れるまでに優れているのは、誇れることだと思ってもいいだろう。なんにせよだな」
「……あー、わたし、やっぱ先に帰るわ」
 どうにも、話の間中嫌な顔をして居るかと思った矢先、これだ。ここからがいい所だというのに、困ったものだな。
「わかった。それじゃ、またな」
「じゃあねー」
 夕日に照らされる教室。佐奈希が出て行った後の教室。この部屋にはもう俺しか残っておらず、遠くの方で聞こえる生徒の笑い声が何かしらの感覚を呼び起こすのは、俺だけではない筈。
 静かになった教室を見渡し、ふと、そう思った。なんだかんだ言いながら、一人では生きてゆけない生き物が人間だ。孤独を不安に思うのは、言わば根本的なものから来ているといってもいい。確かに人間は一人でも“生きて”ゆける。しかしながら、口で話し頭で考えられる生物が一人で生きるというのは、果たして“生きる”と言えるのだろうか。コミュニケーション能力を持った故の孤独感。不必要に感じるオレも居るが、欠けてはいけない感情にも思える。
 無意識に時計を見る……もう17時を回って……と、思い出す。何故俺はここに残っているのか。
 瞬間に、俺は走っていた。この学校特有の、無駄に長い廊下を駆ける。横目に雑談し合う女生徒が映る。一人孤独に読書をしている男生徒が映る。帰り支度を済ませた生徒数人が映る。
 しばらく走り、気付けば階数は屋上へと近づいていた。周りに人の気配はしなくなり、急にこの世界に自分しか存在していないのかと考えてしまう。学校で一人という、酷く矛盾した組み合わせが相まって、またもや深く考える。
 と、深層意識に堕ちかけた所で気付く。何故今日はこんなにも、今はこんなにも、焦っているのか。いつもと変わらない、何の情報価値も見出せない今、俺は何かを求めている。それが何なのかわからなくて、無性に、ただただ、走る。
 向かうは屋上。そこに答えがある気がして、この焦燥感の原因がある気がして。
 そこは群青に染まり始め、水平線上の夕日がひどく、早く沈んでゆくように見える。屋上までもう少し、あとこの階段を上れば――。

 ギィィ、と錆び付いた重いものを動かす音が響いたが、何処までも続く群青色の空に消されてゆく。
 目の前に視線を下ろす。フェンスの傍にある人影。今日初めて見たはずなのに、何故か懐かしいような……。
「遅かったわね、四条和真」
 空が闇色に変わり始めた頃、その声が届いた。

 


・・
・・・



「遅かったわね、四条和真」
 何故、懐かしいのだろう。この目の前にいる人を知っている……そう、既視感。
 過去が揺り動かされるような感じ、霞が強風で吹き飛ばされるような、既存の言葉では形容し難い感覚に襲われる。
「ふん。今朝もそうだったけど、貴方、いつもそんな感じで急にボーっとするわけ? いくら“あの時”に強烈な体験をしたといっても、精神崩壊するほどではなかったと思うのだけれど」
「…………あ、あぁ。待ってくれ、少し、整理をさせてくれ」
「はぁ、どうぞ」
 くそッ、もう少しの所で、掴みかけるところで思い出せない。それに、あの時? この女、一体……。
「はぁぁぁぁ。貴方のペースに合わせていたらそのうち朝日が拝めそうね」
「すまない。では、単刀直入に聞こう。俺に何の用だ? 初対面の女に屋上へ呼び出されるほど、俺は有名人ではない」
「……そう、あなた、おぼえていないのね」
 まただ。この女、一人で何でも知っているようなことを……あぁ、いらいらする。こんなにまで感情が表に出たのは久しぶりだ。……それというのもこの女、俺の過去を知っているような素振りを見せるから。
「仕方ないわね。それじゃ、話を進める前に自己紹介といきましょうか。私はレメディ・ランゲナー、俗に言う魔法使いよ」
 はぁ。魔法使い。しかも外人さんよろしくのカタカナな名前か。……おかしいな、ついさっきまで第六感だの何だのと、存在するかしないかの話をしていた気がするのに、いきなり魔法使いが目の前に出現した。さすがの俺でも世の中には信じられることと信じられないことがあるのは理解しているつもりだ。
 簡単な話が、
「信じられない、という顔ね」
 ……女はコレだから困る。その第六感を何とかしてくれ。
「さすがに、何の知識もない人間にいきなり魔法使いだ、なんて言って信じてもらおうとは思っていないわ。ただ、これからの話は私の立場を前提にして話さなきゃいけないの。わかる?」
「その話の内容によるな」
「あぁ、そう。それじゃ簡潔に言うわね。一つ、私はある依頼でここに来たの。二つ、その以来は貴方に関係すること。三つ、それを実行した場合、貴方が死ぬかもしれない」
 そうか、任務か……と、最後に物騒な単語が出てきた気がする。なに、俺が死ぬだと?
「具体的に言えば、貴方の体の中に存在する“ある物”を回収することが、私の任務ってわけ」
「ある物?」
「そ。時空隔離された特別指定遺産ね」
 わけがわからない。仮にそんな変な物が俺の体にあるとして、何故死ぬことになるのか。
 なんにせよ、だ。
「生憎だが、俺に死ぬ予定はない。今日、明日と食卓に好物が並ぶのでな。かと言って明日死ぬ気もないが」
「はぁぁぁ……今日これで何度目の溜め息よ、私。あのね、貴方、事の重大さを理解していないからそんな事を言えるのよ」
 なにやらブツブツ言いながら俯く転校生。
 人の命に他が干渉してくること自体が無粋だと、分かっていないのだろうかこの女は。どのような理由であれ、命は全て平等だ。今この瞬間に死ねといわれて、死ぬ道理がそもそも存在し得るはずがない。
「……納得がいかないのなら、この場で納得させるまでだわ。――――結界精製、我は主の摂理に背く者なり……」
「なッ……?」
 女がその言葉を言い終わるか言い終わらないか、その場の空気が“反転”する。
「来れ福音」
 ――瞬間、俺は“違う場所”に立っていた。五感を駆使しなくともわかる、絶対的な違和感。
「ここなら邪魔はされないわね。さ、貴方に在るカイロスの時計、回収させてもらうわ――ッ!」
 女が駆けてくる。俺は何も出来ない。何も知らないまま知らない場所で知らない女に誰も知らぬ間に殺されると、頭で分かっているのに体が動かない。
 多分、生き物というのは死ぬことを理解した瞬間、活動をする意味を持たなくなるのだろう。どのように動いても死が決定されたのならば、どうすればいいのか。……答えは簡単だ、苦しまないよう殺されるために、殺されやすい状況を作り出す。
 一歩、また一歩と女が近づく。手に持っているのは……本? 分からないが、“それ”が俺の死を意味しているようにも見える。
「せめて、苦しまないよう殺してあげる……ッ!」
「――ガッ…は、ぁ」
 ヒュンッという音と共に、胸の辺りに異物感。遅れて、激痛が走る。しかし、それも一瞬。だんだんと痛みは薄れ、体内の熱が抜け落ちてゆくような……見れば、胸に不定形の“何か”と、そこから流れ出ている夥しい血。
 ……このまま、俺は殺されていいのか。絶対に、それは間違っている結果だとオレは知っている。しかし、この状況をどうする。今こうして思考を張り巡らせている瞬間にも、あと数秒で死ぬ運命にあるというのに。
 だが、諦める気になれないのはどうしてだろうか。この状況を打破出来得る原因を持っていると、オレはわかっている。後は、その在り処と使い方だけ。
 どうすればいい。俺は、どうしたら――――
 

 『――――なに、簡単なコトさ。オレが俺の“貯金”を返した分、“逆行”すればいい』


 ……不思議と驚きはしない。居て当たり前と思われる主の声を初めて聞いただけの事。して、その内容。
 頭が理解しなくても、体に記憶されているようだ。
 

 


 この世界に存在する遺産の中でも、時間に干渉する類のモノは一つ残らず封印の対象になる。それこそ、時間軸をずらしたり歴史の改変をしたりと、取り返しのつかないことになるからである。
 ほか、“世界”そのものに干渉するモノも存在するが、そのほとんどが消失、もしくは破壊されているのが現状。
 それらを行うのは全て魔術統合機関であり、何者にもそれを妨げることは出来ないことは先ず最初に知ることといってもいいほどだ。
 万一にも満たないだろうが、何も知らない物の手にそれが渡った場合、想像を絶する事が起きるのは、言わずとも。

 

――――――――

 

 

「遅かったわね、四条和真」
「あ、は…ぁ……え?」
 現状を再確認する。……そうだ、俺は屋上に呼び出されて、走っていたんだ。
「ふん。今朝もそうだったけど、貴方、いつもそんな感じで急にボーっとするわけ? いくら“あの時”に強烈な体験をしたといっても、精神崩壊するほどではなかったと思うのだけれど」
 ――既視感。何故か、同じやり取りをしたような、そんな感じ。何故だ、なんだかわからないが……。
「…………あ、あぁ。待ってくれ、少し、整理をさせてくれ」
「はぁ、どうぞ」
 俺はこの会話を知っている。何故だかは分からないが、ここで理由を考えるのは止そう。今、俺がわかっている事は
「俺は、死ぬわけにはいかない」
「え……あ、待ちなさい!」
 急遽来た道を戻る。そうだ、俺はここに居てはいけない。居たら最後殺される、その“事実”だけが俺を揺り動かす。常識的に考えて、そんなことは有り得ないはずだ。しかし、確かに俺は知っている。殺される、という事に急かされてか、来た時以上に急いで階段を移動する。時々後ろを確認するが、追いかけてくる様子はない。……でも、それだけでは安心できないと“何か”が警告する。今日の自分は本当におかしいと、つくづく思う。こんな行動をしてしまう自分と、それを容認する理性がそれを物語っている。挙句の果てには殺される、だ。ホラ吹きでもここまでは言うまい。
 校門まで全速力で走り抜け、一息入れる。体に相当鞭打って走ってきた所為か、呼吸を整えるのに時間がかかりすぎている。
「くそっ、まだ子供の頃のほうがよく動け、て……」
 と、異変を感じた。子供の頃、確かに俺はよく動き回っていた。しかしながら、そう、欠けた部分がはまったような…………。
「記憶」
 少ないながらも、思い出している。絶望的と言われていた記憶が。……しかしながら、考えていても仕方がない。何がきっかけになったは分からないが、記憶が戻ったのは事実だ。それに、ここに居たら危険が無いとは言い切れない。一先ず、家に帰ろう。
 日は完全に落ちて、街灯だけが頼りとなっている。特にいつもと変わらないはずなのに、暗闇に何かが潜んでいるような錯覚に陥ってしまう。それというのも、あの変な感覚の所為だ。自分が絶対死ぬ。そのような原因は存在しないはずなのに、確信だけが心の内に存在するという謎。普通に考えてみて、学校の屋上で転校生に殺されるなどと非常識な事は起こり得るはずがない。それにあの女……朝の自己紹介の時とは、別の名前を言っていた気がする。……あれ? おかしい、思い出せない。確か、言っていたような気がしたのだが……むう。
 想いに耽っていた所為か、家に着くのは案外にも早く感じた。かかっていた時間はいつもと実質的には変わらないはずなのだが、人間にはたまにこういう時がある。

「ただいま」
 ふと気付く。玄関の電気がついていない。……然り、人の気配がしない。何か嫌な予感がし、リビングの机を見て確信した。メモが一枚。
《和真へ
ちょっとよさそうなツアーを見つけたから、パパと一緒に行ってくるわ。
追伸、三日ほどで帰るから、その間のご飯は何か工夫して食べてね。
母さんより》
 これだ。うちの親はふとしたきっかけで旅行に行くことが多い。これも然り。
 なんとも困ったことになった。俺は確かに食うのは好きだが、料理はからっきしだ。作り置きが無いとなると、絶望的である。
 念のために冷蔵庫を確認……が、案の定からっぽになっていた。家を空けるとき、冷蔵庫の中身を無くして行くのは至極当然だが、人が残っているのにそれを行うのはいかがなものか。
「腹が空いた」
 胃に何も入っていないというのに、腸が活動して音が鳴る。なんとも、哀愁を誘う光景であろうか。一人、薄暗い部屋に立って空の冷蔵庫を見ながら腹を鳴らす。……考えているだけでも涙が出てくる。
 仕方がないので、出来る料理スクランブルエッグを作ることにする。しかし、これは最早料理とはいえない。なんせ、卵を割って溶いて、フライパンの上でかき混ぜるだけなのだ。これを料理と呼んだら、もう後戻りできない気がする。
 …………そして、重大なことに気付く。冷蔵庫に入れておく物でかなりの不安材料となる卵が、あるわけがないと。
 まさに生き地獄とはこのこと。大粒の涙を目尻に溜め込みながら、俺は自室に戻り、着替える間もなく布団を被った。そう、空腹を紛らわせることが出来るのは同じ三大欲に在る睡眠。それに頼ることでしか、今の俺はやっていけなかった。
 眠いわけが無いのに眠ろうとしている所為か、中々寝付けない。しかし、目を瞑り、体の力を抜き、腹式呼吸を意識すると、人間、眠くなってくるものだ。そうやって自身を納得させながら、俺はゆっくりと意識を手放した。




テラ邪気眼wwwwwwwでもこういうの大好きな俺は間違いなく中二病wwwwwwwwwwww
ごめんなさい。続きを書ける自身がないんです。
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